音もなく、なのに波は打ち寄せ、風は髪をさらい、身体を取り巻いていく。
前も後ろもなく、どこにも逃げる場所はない。飲み込まれ、消えてしまいそうな不安に、内側から押し潰されそうになる。
自分が消える、何かに飲み込まれる、その瞬間を忘れることなどできない。ただ恐ろしく、迫り来るなにかをじっと見ていることしかできなかった。
そして、その後に訪れる、闇。
いやだ! もうあそこへは戻りたくない!
誰か
叫びに応じて浮かび上がった姿は、とても儚い。
ああ、そうだ……菜樹(なみき)は、もういないんだ。あの日々で見つけ出した夢のために、今は伊豆長岡を離れ、彼女を育んだ地で学んでいる。もういない。
つぶやきが儚い面影をさらっていく。
せり上がる恐怖が、再び何かの像を結んだ。本人の力強さとは対照的なまでに、薄い。
そうだった……海生(かいせい)も、行ってしまったのだ。課された責を果たすために、彼もまた知識を必要としている。ここを離れ、優れた先達に学ぶために、彼は彼の城を出ていった。もういない。
つぶやきに消えた面影が、きつくこちらを睨んだ。
すくんだ身体が見やった先に、像が浮かび上がる。
一衣(かずい)さんは……ああ、もうどれくらい会っていないんだろうか。いつもここではないどこかに、珠洲羽(すずは)さんと一緒にいて、誰か、知らない宇津保(うつほ)のために戦っている。もういない。
つぶやきが屈託のない笑顔を消し去った。
逸らした目に飛び込んできた、小さな影。
曠(こう)……そうだ、あの子は何よりも欲していた理解者を得て、山を下りた。失われた名を見つけ出し、今は奪われていた時を取り戻すために、力を尽くしているはずだ。もういない。
つぶやきに消える刹那、くしゃりと像が歪む。
思わず閉じた目を再び開いたとき、ふわりと周囲に様々な人の顔が浮かび上がった。
唱壽寺(しょうじゅじ)の人たち、たくさんのからくり、かつて暮らし
た村の人たち、新しく知り合った人たち
誰も助けてはくれない。
誰も認めてはくれない。
誰も包んではくれない。
こみ上げてきたのはなんだったのか、わからないままに吐き出そうとするが、とりまく海がそれを許さない。水面からぽこりぽこりと浮かび上がった泡が、見据える目を一つ一つ飲み込んでいく。
泡は人の頭ほどもあったのに、どんどんと小さくなって、まるでシャボン玉のように小さく小さくなって、上へと登っていく。
どこへ……?
さまよう目はぼんやりとシャボン玉を追うが、一つとして割れるものはなく、楽しげに舞い上がっていく。
置いていかないでくれ!
叫んでも、音のない世界に声はなく、聞き届ける者もいない。振り返る者も、動きを止める者もいない。シャボン玉はどこまでも高く、高く登っていく。
ぞくりと背筋が震えた。
シャボン玉を追い求める視線を必死に引き戻せば、ただ波だけが打ち寄せている。みな、行ってしまった。背筋を震わせたものを確かめるために、ゆっくりと後ろを振り返る。
そこにたった一つだけ、シャボン玉が漂っていた。いや、まだそんなに小さくはない。表面が虹色に輝いているのが見て取れるくらいに、それは存在感を持ってたゆたっている。
中にいるのは……うそだ、そんなまさか、彼女まで行ってしまうなんて、そんなはずはない! 嘘だ!!
聞こえないはずの声が、シャボン玉を弾いた。ゆるゆると他のシャボン玉を追って、登り始める。
いやだ! 行かないでくれ! 一人にしないでくれ!!
初めて、手を伸ばした。
触れた瞬間、シャボン玉は激しく揺らぐ。
息を呑む。
シャボン玉の中の瞳が悲しげに見開かれ、そして、手の中のあえかな感触が、消えた。
「きゃあっ!!」
短い叫び声が耳朶を打った。見開いた目に飛び込んできたのは、懐かしい顔。驚きと困惑をないまぜにした表情が、ちょっとだけ朱に染まっている。
「な、なんなのよ、ちょっと! 寝てたかと思えば急に人の手掴んだりして」
「……」
「だいたい、なんでそんなに驚いた顔してるわけ? びっくりしたのはこっちだわ」
「……かと思った」
「なに?」
形の良い眉がくいっとひそめられ、一旦離れようとしていた顔が再び近づく。そのことにひどく安堵して、ゆっくりと一度瞬きをすると、かすれた声がやっと音を紡ぎだした。
「壊してしまったかと、思いました……」
「……寝惚けてるの?」
そう言って、腕を乱暴に振り払う。同時にぼとりと腹の上に落ちた自分の腕の重みが、少し嬉しくて、そして、惜しい。
唇を軽く突き出して、真っ赤になってしまった手首をさすりながら、ばっかみたい、とつぶやいた声に、思わず微笑んでしまった。
「もう帰るわ」
「それで、こっちへ寄ってくれたんですか?」
「……別に。時々、こんな板の間で眠りに落ちる、器用な間抜けがいるから」
その言葉に苦笑して身体を起こすと、確かに少しばかり、背中がきしむような感覚がある。これは十分に悪癖なのだとわかっているが、どうしてもやめられない。だから悪癖なのだ。
「帰るんですか?」
「今言ったでしょう? 私も暇じゃないのよ」
くるりと背を向け、回廊を出ていく。ぴんと伸ばされた背筋に見とれ、そのことに気づくのに一拍……二拍遅れた。立ち上がろうと手をつくと、指先が何かに触れてかさりと音を立てた。
「……?」
それは、小さな白い紙袋だった。自分のものではない。眠りに落ちる前にはここになかったものだ。ということは、忘れ物なのではないだろうか。
袋を拾って立ち上がり、強ばる身体を伸ばしながら回廊を抜ける。もう本堂を出てしまっただろうかと足を早めてみれば、相手はまだ、入り口の処に立ち止まっていた。目が合うと、弾かれたように逸らす。
一瞬、どこかが痛んだ気がしたけれど、ゆっくりと踏み出して手の中の袋を差し出す。かさりという音に、再びこちらを向いた目が、ぱたぱたと瞬きを繰り返した。
「なに?」
「これ、忘れ物じゃないですか?」
そう言うと、瞬きは止まり、眉がひそめられる。
「わ、忘れ物じゃないわよ! それは……っ、もう、いいから開けなさいよ!」
「開けて、いいんですか……?」
「いいって言ってるでしょ!!」
怒っているような声音にたじろぎながらも、紙袋を開くと、中から濃い茶色い革の袋が現れた。上部が開いていて、中が覗いている。
伺うように見やれば、強い視線が取り出すようにと促している。開いた口から指を差し込んで引っぱり出してみると、それは、細身のサングラスだった。
「サングラス……?」
「ほら、あんた……一衣のしてるの、欲しがってたでしょ? その、日射しは強いし、でも海に行くの好きみたいだから……も、持ってても、そうよ、そう、邪魔にはならないし」
「……もしかして、僕に……?」
言葉を紡ぐ内に夕陽を照り返した顔が、きっとこちらを睨み付けた。
「……いらないなら、いい」
そう言って、手の中のサングラスを奪い取ろうとする。慌ててサングラスを握りしめて、その手を取る。思わぬこちらの反撃に揺らいだ身体を、ふわりと傷つけぬように抱き留めた。
「……いらないなんて、言ってません。ただ……」
「ただ、なによ?」
胸の辺りで、くぐもった声が問い返してくる。布越しに触れる熱い吐息に、思わず腕に力がこもった。
「海の色って、これだったんだって、そう思って」
「その色、気に入らないなら取り替えるけど」
「いえ、さっきまで……色のない海にいたから」
「色のない海?」
下から見上げた顔が、ふっと優しげにゆるんだ。
「相変わらず、あんたの言ってることはよくわかんないわね。海に色がないなんて」
「違います、色のない海が
「バカね。こうすればいいのよ」
握りしめていたはずの手が、柔らかなものに触れて溶けていく。あっさりと奪われたサングラスが小さな手の中で開かれて、一瞬後、海が広がった。
「海の色だ……」
「海の色よ」
離れたぬくもりが、こちらを振り返って笑った。
「それで、なんなの? 色のない海って」
答えようとした瞬間、すべてが波にさらわれていた。微かに残る物悲しさが、夢の訪れを告げる。
「……夢を、見ていたようです……」
目の前に広がる深い青はどこまでも優しい。その向こうに輝く虹が、伸ばした手の先に触れた。
『ふぁんたすてぃっく・ふぉー!』(2001年8月発行)より
『傀儡開放』後の、唱壽寺のとある一日のお話です。本文中に名前を出さない仕様だったので、わかりやすくぐだぐだ増量、ツンデレ増量にして書いてます。
そのせいか、あまり得意ではないイチャイチャ……とも言えない、ラブシーン……とはもっと言えない、…………絡み? の話ながら、カッチカチの主役たちよりも断然書きやすかったです。