取っ手と痣と学者バカ

『FW』番外編その1


 湯呑みの中の紅茶を見下ろして、小美仁(おみ・ひとし)は眉を寄せた。大学院棟にある舟和(ふなわ)の研究室においては、紅茶は湯呑みに入って出るものと決まっている。いや、紅茶だけじゃない。コーヒーだろうが牛乳だろうがカルピスだろうが、飲み物はすべて湯呑みで登場する。
 それは単に、研究室の給湯コーナーに湯呑み以外に飲み物を注ぐ器が存在していないからなのだが、そのことがどうにも不思議でならない。
 そもそも紅茶が好物だというのならば、取っ手のついたカップで飲むのが常識ではないのだろうか。先日、舟和ゼミ総出で昼食を食べに行ったとき、舟和紘世(こうせい)は食後の紅茶をちゃんとカップで飲んでいた。となると、カップに対してトラウマがあり、徹底的に忌避している、というようなことはないらしい。
 だがしかし、研究室では湯呑みで飲むのだ、紅茶を。別に個人の嗜好だからどうこう言うようなことではないが、こうして付き合わされる身になってみると、気になって仕方がない。
 熱い紅茶の注がれた湯呑みがどんなに持ちづらいか――せめて学生の分だけでも取っ手をつけてくれればいいのに、と小美は内心でつぶやいた。
 ……つもりだったのだが。
「猫舌ならぬ猫手か、シャオちゃんは」
 気がつけば口は心の言葉をつぶやいていたらしい。嬉しそうに茶々を入れる永吉巧(ながよし・たくみ)を下から睨み付けると、小美は豪快に湯呑みをつかんで見せた。
「猫手、なんか、じゃ……あっつーっ!!」
「熱湯で入れるんだから、熱いに決まってるだろ? おっちょこちょいねぇ、シャオちゃんったら」
「ちゃんづけはやめて下さいってば!」
 赤く色づいた指先に息を吹きかけながら抗議する。しかし永吉は堪えた風もなく、にやりと口元を歪めた。
「だから言ってるだろ、俺のこともちゃんづけしていいって。そうしたらお互い様ってことで」
「冗談じゃないですよ、そんな気持ちの悪い!」
「気持ち悪いかなぁ。僕なんか、永吉(エイキ)っちゃんって呼ぶ方が楽だけど」
 紅茶を飲み込んだ勢多秀生(せた・ひでお)が、にこにこと話に混じってくる。ぽやぽやとしたその指は熱伝導率が低いのだろうか、などと考えていた小美は、はっとして首を振った。
「いや、その、勢多さんはいいんですよ。永吉(エイキチ)さんより年上だし。でも、俺はイヤなんです」
「そんな他人行儀なこと言うなよ。俺とお前の仲で」
「同じゼミに所属している大学院生と学部生という以上の仲はないですが、これは十分他人行儀の範疇だと思います」
「まー、可愛くないね、この子は!」
 笑って、永吉は小美のおでこをつついた。
「あ、また小美君からかって遊んでる」
 給湯コーナーの片付けを終え、古旗日和(ふるはた・ひより)が戻ってきた。空いた椅子に腰を掛けて、お盆の上に残っていた湯呑みを取り上げて息をつく。
「先生が資料読んでらっしゃるんだから、少しは静かにして下さいね、永吉先輩」
「大丈夫だって、少しくらい騒いでも。今ここに暴れ牛が乱入したって、目もくれずに資料読み続けるぜ」
 永吉はそう言って、奥の机に座る舟和を見やった。
 最前から舟和は、壁と机の狭間で大量の紙と格闘していた。それは、舟和の指示で勢多らが集めた、ファックスやらコピーやらパソコンからのプリントアウトやらで、おそらくは何かの祭祀に関する資料なのだろう。今も脇にある机から、プリントアウトしたての資料が随時双屋諒市(そうや・りょういち)の手によって追加されていた。
 永吉の言うように、舟和は資料読みに没頭していて、回りの音などまったく耳に入っていない様子である。さきほど小美が奇妙な叫び声を上げたときも、ぴくりとも反応を示さなかった。
「学者には必要な適性の一つかもしれないけど、日常生活を送るには、多少大げさだな、あの集中力は」
 机の上一杯に紙を広げ、時折そこから紙を取り上げて、ぱらぱらとめくっている。よくもまあ、ろくに見もせず目当ての資料が探し出せるものだと感心してしまう。
 その最中、不意に舟和の左手が机の上に突き出され、宙をさまようように揺れた。やはり資料が見つからないこともあるのかと、小美が意地の悪い笑みを浮かべて見つめていると、その指先が湯呑みに触れた。
「あっ!」
 倒れるのではないかと声を上げたが、舟和は初めから湯呑みが目的だったらしく、しっかりと左手でつかみ取ると、目は資料に向けたまま、湯呑みを傾けている。思わず胸を撫で下ろし、ゼミ生の輪の中に目を戻すと、全員が面白そうに小美を見つめていた。
「なんですか?」
「いや、今驚いてたろ?」
「ああ、湯呑みを倒すかと思ったんで……」
「大丈夫だよ。あれは倒さないように湯呑みにしてあるんだからね」
「倒さないように?」
 首を傾げ、小美は自分の前に置かれた湯呑みを見つめた。湯呑みはごくごく普通のもので、特別重いとかでかいというような特質はない。
「元々は、取っ手のついたカップを使っていたんだよ、先生も。だけど、見ただろ? 資料を読みながら紅茶を飲むもんだから、ああして見当で手を伸ばすんだよ。そうすると、三回に一回は取っ手に指を引っかけてカップを倒しちゃって、資料が茶色に染まるっていうわけ」
 勢多はその当時のことを思い出したのか、苦笑しながら話した。
「湯呑みは取っ手がない分、引っかかりにくいし、勢いよく手を突き出したりしなきゃ、案外倒れないんだ」
「それで、いつも湯呑みだったんですか……」
「紅茶に湯呑みっていうのも変な感じなんだけど、慣れちゃえば別に不便ってわけでもないしね」
「不便……は、不便ですけど……」
 湯気の立つ紅茶を見てつぶやくと、永吉が笑み含みの声で言った。
「シャオちゃんは繊細なお手々をしてるから」
「大きなお世話です!」
「まったく、先生とは対照的だよね、セッタさん」
「ああ、あれね。あれはでもひどすぎるよ」
 永吉の言葉を受けて、勢多がくつくつと笑う。戸惑うように日和に目をやると、日和もまた二人の会話の内容がわからないらしく、眉をひそめていた。
「あれってなんなんですか、勢多さん」
「あれ? 日和君は知らなかったっけ。煙草の話」
「煙草って……舟和先生、煙草吸われませんよね?」
「元は結構ヘビースモーカーだったんだよ。永吉っちゃん並」
「そうなんですか!」
 日和は意外そうに舟和を見やるが、やはりその視線にもまったく気づく様子がない。
「煙草の話っていうからには、単純な禁煙話なんていうのではないんですよね?」
「もちろん。日和君は見たことあるかなぁ。先生の左手の人差し指と中指」
 勢多はそう言って、自分の左手を広げ、二本の指の第一関節の辺りを指し示した。
「あっ、はい、あの痣みたいになっている……」
「あれ、痣じゃなくて火傷の痕なんだよ」
「火傷? もしかして、煙草の?」
 日和の言葉に答えるように、ひょいっと煙草が一本、輪の中に突き出された。永吉の指定銘柄のものである。
 永吉は左手に煙草をはさみ、フィルターを親指でくいくいっと弾いてみせる。
「こんな風に煙草を持つだろ? で、点火して三秒後には資料読みに没頭して、煙草を持っていたことを忘れちまう。でも、煙草は燃えるのを忘れたりはしないから、ゆるゆると燃え続けて――」
「まさか……」
「そのまさか。指に火がついて初めて『ああ、そう言えば煙草をつけてたんだっけ』となるわけだ」
 その光景を想像し、日和も小美も絶句してしまう。いくらなんでもそれはひどい。紅茶を倒しても火傷はするが、直接火に炙られるのとでは程度が違う。
「根性焼きしながら資料読むんですか、先生は……」
 小美が眉をひそめて舟和を見やっていると、頭上から息の漏れる音がする。聞き慣れたその音に見上げれば、永吉がわずかに背を屈めて笑っていた。
「笑い事じゃないですよ」
「いや……学者が、根性焼きって……大体、根性焼きって言葉自体、俺十年ぶりくらいかも」
「そ、そんなとこはどうだっていいんですよ! 俺が言いたいのは、そんな痣になっちゃうくらい火傷したのかってことで」
「そうそう、それがまた凄くってさ、繰り返すんだよ、火傷した直後にも」
「直後に!?」
「『アッという間に煙草がなくなった。こいつはおそれ入谷の鬼子母神だねぇ』って、新しいのをもう一本」
「大学の医務室もいい加減治療してくれなくなって、一時はその隅でアロエ栽培もしてたんだよね。あれ、学部の子の差し入れだっけ?」
 勢多が指さした部屋の隅では、空になったプランターがダンボール箱の合間に挟まっている。かつて舟和を火傷の痛みから救ったアロエのものなのだろう。
「でも、火傷のせいでふいになった調査があって、それ以来ぴたりと禁煙したんだよ」
「火傷そのものより、調査がきっかけなんて先生らしいわ」
 苦笑して湯呑みを傾けた日和は、目を細めて舟和を見やった。そして、彼の左手が湯呑みを持ったままぶらついているのに気づく。
「空、なんですね。淹れてきます」
 日和はやはり空になっている永吉と勢多の湯呑みも受け取ると、舟和の席へ向かう。その手からそっと湯呑みを抜き取るが、舟和の左手はしばらくその形のまま、宙を漂っていた。
「……学者にだけは、なりたくないな……」
 思わずつぶやいた言葉にかぶさるように、喉奥で笑うような声が降り注ぐ。ぎろりと一睨みした小美は、湯呑みを手にとって、ようやく飲み頃になった紅茶を味わうのだった。


『ふぁんたすてぃっく・ふぉー!』(2001年8月発行)より

『FW』発刊直後に出した同人誌に載せた番外編です。
舟和ゼミの日常風景と教授の秘密と、その後の伏線(?)も入ってます。

                     
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