(――全然違うじゃない)
裏表紙を向けている本をひっくり返し、箔押しされた題名と著者名を爪の先でそっと辿っていく。
『女性祭祀の屋敷神 舟和紘世(ふなわ・こうせい)』
わざわざ従兄に頼み、彼の大学の図書館から借り出してもらった本である。しかし、そうまでして読もうと思ったのも、元はと言えば、やはり従兄に借りたある本がきっかけだった。
家父長制を論じたその本には、「女性不在の家」という副題がついていた。さほど厚くない本だったので、借りた日の夜には読み終えていたのだが、どうにも強引で納得のいかない箇所が諸処に見受けられた。
こうなるととことん追求したくなる質で、日和は引用されている文献を直接当たってみることにした。その第一歩が舟和紘世なる人物の、『女性祭祀の屋敷神』だったのである。
あんな強引な論理を補強するなんて、一体どんな本だろうと気合いを入れて臨んだのだが、読み進むにつれ日和は憤慨せざるをえなくなっていた。
とにかく、件の本が引用した意図と本来の文意がまったく違うのである。どこをどうやったら、こんなとんでもない解釈で引用できるのか、家父長制を論じた著者を締め上げたいほどに、その引用は悪質だった。
しかしながら、舟和の本を読み終えた後、日和は件の本の作者にささやかながら感謝の気持ちを抱いていた。恣意的な引用をしているにも関わらず、引用文献について、正直かつ丁寧に紹介してくれたことに。
(おかげで、こんな面白い本に出会えたんだもの)
日和はもう一度本を開くと、巻末の著者紹介に載せられた他の著作の題名をメモに取り始めた。
* * *
多少がたつく扉を神経質なまでにきっちりと閉めると、双屋諒市(そうや・りょういち)は奥に坐す人物に向き直った。
「お話とはなんでしょうか、先生」
「君、東ノ宮(ひがしのみや)の院を受けてみる気はないか?」
双屋は思わず眉をひそめたが、目の前にいるのが指導教官であることを思い出し、すぐさま眉間の皺を消した。
「……唐突すぎておっしゃる意味がわかりません」
「畑中先生の遺言で君を引き受けたが、どうも私の指導では君を導けないのではないかと思ってね」
「先日提出した修士論文の下書きに、どこか不備でもあったんでしょうか? 下書きとは言え、手を抜いた覚えはありませんし、推敲も十分してありますし、なによりあたれる限り一次資料を用いていたはずですが」
流れるような反論に、指導教官は少し身を引くが、こほん、と小さく咳払いをすると、手の下にある分厚い紙束の端を持ち上げた。
「なにより、か。確かに、一次資料にあたることは有効だが、本文より引用の注釈や参考文献リストの方が多いというのはいかがなものだろうね」
「ですが、不正確な引用は強引な論理の展開や誤解の元になりかねないですし、注釈や参考文献リストが完全なものであることは、常識以前の話ではないですか。それのどこが問題なのか、理解しかねます」
「……双屋君、文献主義が悪いとは言わないが――」
「文献主義などではありません」
「……とにかく、私はここまで文献に忠実であるような指導はしていなくてね。かといって、君のスタイルを壊すのもどうかと思うし、ここは一つ、君にぴったりの人間を紹介しようかと」
「それが東ノ宮、ということですか?」
「舟和紘世を知っているだろう?」
「もちろん。その論文にも彼の論文を六本ばかり、引用してありますから」
「彼とは古い知り合いでね、君のことを愚……いや、話したら、その、興味を持ってくれたようで――」
「舟和紘世が!?」
双屋の滅多にない興奮した声に、指導教官はほっとしたようにうなずく。そして、一通の手紙を差し出した。
「受験するつもりがあるのなら、この紹介状をつけよう。畑中先生の門下であったことも書いてあるから、君の評価は高――」
「是非、検討させて下さい。ありがとうございました」
双屋は会釈のような礼を返すと、手紙を奪うようにして取り上げ、指導教官の部屋から飛び出していく。
その後ろで、まるで重い荷物を下ろしたかのように、教官が肩を落として微笑んでいることに、気づく余裕はまったくなかった。
* * *
がさりと草をかきわけて進むこと一時間、自分が今どこにいるのか少しばかり怪しくなってきていた。手元の地図を見たところで、山の中に目印があるわけでもなく、勢多秀生(せた・ひでお)は額の汗を拭って、先を行く人物に声をかけた。
「先生! 舟和先生、ちょっと待って下さい!」
「なんだい、勢多君。こんなところで休憩かい?」
「いえ、その、ここら辺で一度、目標を再確認した方がいいんじゃないかと思うんですけど……」
「目標を?」
立ち止まり、勢多を振り返った舟和紘世は、もう一度目指していた先を見やってから勢多に視線を戻した。
「どれくらい来たかな?」
「獣道が消えてから一時間弱です」
「一時間とは、おそれ入谷の鬼子母神だねぇ。確か、三十分くらいで着くはずだが」
「ですから、道を間違えたんじゃないかと」
「道がないからねぇ」
のんびりと笑う舟和に、勢多は内心でため息をこぼす。
「とにかく、一旦引き返しませんか? このままじゃ反対側に出ちゃいますよ」
「それは戻った方が結果的には早そうだ」
言うが早いか、舟和は勢多を追い越して、来た道をずんずん引き返していく。ぼんやりその背を見送ってしまった勢多は、はっと我に返ってとてとてと後を追った。
「ま、待ってくださいって、あ、先生、そっちじゃないですよ、先生っ!!」
ゆるく右に曲がり始めた舟和を引き留め、勢多は思わず空を仰いだ。
* * *
後ろから不意に肩を抱かれ、三元梗子(みつもと・きょうこ)は小さく声を上げて振り返った。
「もう……びっくりした……」
「悪い、おどかしちゃった?」
「驚くに決まってるでしょ。学校に来たの何日ぶりだか覚えてる?」
後ろから覗き込むようにしている男の顔を、梗子は軽く睨み付ける。しかし男は気にした風もなく、眉を上げるとしばし考え込んだ。
「先週の水曜は来てたんだから、一週間も留守にしてないはずだけど」
「それだけいなければ十分です。おかげで永吉(エイキチ)君の“担当”、私が肩代わりする羽目になったんだから」
「あー、ごめん。どうしてもこの時期外せなくってさ」
「わかってるわ、そんなこと。でも、もちろんお昼ぐらい奢ってくれるんでしょ?」
その言葉に永吉巧(ながよし・たくみ)は、うーんとうなってジーンズの後ろポケットに手を当てた。財布の有無を確かめているらしい。
「……学食限定なら、なんとか」
「定食は勘弁してあげるから、そのかわり、今回の調査のこと教えてね。卒論、なんとかなりそう?」
「先生の調査ぶっちぎって行ったんだから、成果がなきゃまずいって。卒論通らなきゃ、院試受けた意味もなくなるし」
「そうしたら、私と一緒にもう一度卒論書く?」
「卒論なんて一度で十分」
永吉は抱いたままだった梗子の肩を軽くぱん、と叩いて一歩前へ出た。さり気なく後ろに伸ばされたその手に、梗子は自分の手を滑り込ませる。暖かな手が力強く梗子を引っ張り、二人は学生が群がる学食目指して歩き出した。
* * *
鞄の中を探っていた小美仁(おみ・ひとし)は、「あれ?」と小さくつぶやいた。それを聞きとがめ、後ろに座る同級生が小美の背をつつく。
「なにやってんだよ、モスラ」
「いや、進路調査の紙がさ……」
「机の中じゃねぇの?」
「あ、そうだ……あったあった。出してこよ」
机の中から引っぱり出されたその紙は、無惨に折れ曲がっている。気にせずに立ち上がった小美の手から、同級生がその紙を奪い取って眺め始めた。
「K大学法学部、S大学経済学部、M大学文学部――なにこれ」
「参考資料をぱっと開いてシャーペンが当たったとこを順番に書いてったんだけど」
「ポリシーなさすぎ。せめて学部ぐらい揃えとけよ」
「まずいかなぁ? 特に行きたいとこもないしさ、どうせ何書いたっていちゃもんつけられるんだし」
「こんなの出したらいちゃもんじゃ済まねぇよ」
突き返された紙を受けとった小美はしばし沈黙していたが、机の中からペンケースを取り出すと、学部の欄に消しゴムをかけ始めた。
「K大とS大も文学部ってあるよな?」
「……あると思うけど」
「んじゃ、全部文学部にしとく」
「もう十月だってのに……本当に受験生かよ、こいつ」
友人の呆れ顔に気づきもせず、小美は鼻歌まじりでペンを走らせている。
――一年後も受験生を続けているなどとは夢にも思わずに……。
『わんだぁ・すりー!』(2002年12月発行)より
舟和ゼミ構成員それぞれの四年前のお話です。
「永吉パートで梗子が言っていた“担当”については、『FW2』で明かされるかな」って書いてありました。
すみません(笑)。