それでも夕べのうちにかかってしまった砂粒をそっと手で払いのけてやると、輝きは一層増す。名残に揺れる葉が楽しげで、つられたようにくくっと笑った。
家よりも立派で広大な庭を見渡すと、南の離れの前に、薄茶色のものがふわふわと揺れている。それを確認して微笑むと、少年は木や草に触れながら、庭を西へと抜けていった。その足が、隣との境に近い場所で止まる。
赤い花が群生している。そこだけはしっかりと石で囲いが施されていたが、この花は他者の領域を侵すようなことはしない。同胞と寄り添うように、甘い匂いを漂わせながら咲いている。
その中に一本、くたりと身を横たえた花を見つけて、少年は少しだけ眉をひそめた。これはみんなより少しだけ早く花を開いた。だから、周りの花よりも早く、眠ってしまったのだ。
花壇から土をすくいあげ、土の褥に眠る花にざらりとかけてやると、花が最後の息を吐いたような気がして、少年もまた、安堵の吐息をついた。
「トウ! ちょうど良かった。今おまえさんのとこに行こうと思ってたんだよ」
突然頭上から降ってきた声に、少年トウはびっくりして顔を上げる。声の主は老人で、花の向こう、隣家の垣根越しにこちらを覗き込んでいた。
「グスリさん、こんにちは」
「ああ、こんにちは。どうだね、お前さんのディハは」
「うん。良い調子だよ。今年は去年よりもうんと花が咲いたもの。二季のときと土は違うけど、相性はいいみたい。それよりグスリさん、僕に用事って何?」
垣根にもたれながらにこにことトウの話を聞いていたグスリは、唐突に自分の名を呼ばれて目をぱちくりとさせた。少年が花を語る声は優しく、楽しげで、ついつい聞き入ってしまうのだが、それで自分の用事を忘れてしまうのは情けない。
こほん、と咳払いで威厳を保ち、グスリはひょいとかがみ込んだ。それを追うように花壇を回り込んだトウが垣根に駆け寄ると、再び姿を現したグスリの手に鉢が一つ、掲げられていた。
「このタルセンパがどうもいかんでねぇ……ほれ、しおしおと元気がないだろう? 婆さんが夕べ水をやりすぎたんじゃないかと言うし、どうしたもんだろうかね」
トウは垣根越しに伸ばした手をはっとしたように引っ込め、十歩ほど飛ぶようにして移動した。まだまだグスリの家の垣根は続いていたが、一ヶ所だけ、かくんと低くなっているのだ。すっかり慣れた仕草で飛び越えると、鉢を抱えたグスリの下へと駆けつけた。
「どうかねぇ、トウ」
「…………」
差し出された鉢を受け取ったトウは、グスリの声など聞こえぬかのように答えもせず、しげしげとタルセンパを眺めやっている。葉っぱよりも幾分薄い緑の瞳が、日の光を受けてきらきらと輝いた。
タルセンパは葉の数は少ないがひょろひょろと丈の高い植物で、それを植えた鉢というのは十歳の少年の手に余る大きさだ。しかしトウは時折ぐらりと身体をふらつかせながらも、鉢を持ち上げて下から覗き込んだり、斜めにして茎の状態を見たりしている。
やがて鉢は土の上に下ろされたが、それも重いからというよりは、タルセンパを上から見たいためだったようで、重いという言葉は最後まで聞かれない。
「……となると、やっぱり葉裏の……うん、これが……ならあれで……」
タルセンパの下の方の葉を軽くひっくり返しながらぶつぶつとつぶやていたトウは、屈めていた腰を起こすと、グスリににっこりと笑って見せた。
「大丈夫。病気だけど、これならすぐによくなるよ」
「なに、病気とな!」
「うん。ほら、ここんとこ……葉の裏側に、小さな白い斑点があるでしょう? ブツって言って、葉っぱが弱ってしまう病気なんだ。グスリさん、一昨日はこの鉢どこに置いてあったの?」
「あ、ああ、あっちの生け垣の横だが……」
グスリが指さしたのは表通りに面した生け垣の脇で、タルセンパとは違う鉢が二つばかり置かれている。その葉が今日のような微風にも揺れているのを見れば、随分と風通しの良い場所なのだとわかる。
「一昨日は砂風がひどかったから、この子、それを受けてちょっと弱っちゃったんだね。でも、これくらいなら葉にちょこっと薬を塗って、日陰に置いておけばすぐに元気になるよ」
トウはそう言って、斑点の浮いた葉を優しく撫でた。そのトウの手にそっと触れて、グスリが頬をゆるめる。
「ありがとうな、トウ。お前さんの手にはいっつも助けられる」
「……?」
「こないだ見てもらったウルククなぁ、今朝芽を出しよった」
「本当!?」
「ああ。もう芽が腐れたかと思ったが、お前さんの言うとおり、ちょいと寝坊してただけだったんじゃな。〈目覚めの手〉に起こされて、慌てて芽を出しよった」
〈目覚めの手〉という言葉に、トウはくすぐったそうに目を瞬かせる。そうしてタルセンパから手を放すと、おのが手を空にかざした。
「……僕、本当に眠っている芽を起こせるのかな」
「起こせるとも」
「そうしたら、いつかディハでない花の芽も、起こせるかなぁ」
「……起こせるよ。ああ、起こせるとも。トウならきっとな」
そのとき、遠くからきれいな声が響いてきた。トウの耳がぴくりとうごめく。その視線の先で、辺境では珍しい黒髪を一つに束ねた女性が、大きな木匙を振り回していた。
「トウーっ! ご飯だから、父さんを引っ張ってきて!」
「はーいっ!!グスリさん、薬は後でね」
「ああ、ああ。また後でな」
勢い良く垣根を飛び越え、トウは庭の一隅に走り込んでいく。緑の中に埋もれていた、少年と良く似た薄茶の頭が、一拍置いて激しく左右に揺さぶられた。
やがて観念したように立ち上がった男は、少年に手を引かれてふらふらと母屋へ向かった。
ちらりと垣根越しに赤い花を見やったグスリが、思わず笑みを洩らす。
「……偉い花学者さんも形無しじゃの」
男は黒髪の妻に木匙ではたかれ、後ろに回った息子にぐいぐいと母屋に押し込まれている。それは情けない後ろ姿だったが、ディハの甘い香りに包まれて、グスリの目には、ひどく幸せな光景に映った。
『わんだぁ・すりー!』(2002年12月発行)より
『眠れる女王』の原型では、主役は十歳の少年トウで、サユヴァはその母親であり、花学者グラド=ロゥの初恋の女性でした。トウとグラド=ロゥ、二重にボーイミーツガールかつ学園モノだったのです。
トウの年齢や敵がいないという理由でボツになりましたが、原型にも未練があったので、そのテイストを取り入れつつ、『眠れる女王』から十数年後の番外編として書きました。