その日のこと

『S・P・A・T!』番外編


   ○◎● 丸山風香(まるやま・ふうか)の場合 ●◎○
 
 その日は、いつもと同じように始まった。
 朝一番に冷水を浴びると霊能力が高まると聞いてから三ヶ月、誰よりも早く風呂場を独占して水を浴び、ついでにシャワーを浴びて、着替える前に本から書き写した霊能力が高まるという霊符で身体中を撫で、渋谷の裏道の路上販売で買った霊能力が高まるというお香を嗅いで、原宿の占いのお店で買った霊能力が高まるという指輪を鎖に通して首から掛け、ダイエットのために朝食を抜いて家を出た。
 委員会があっていつもより早出のため、家人とも顔を合わせないままだった風香は、その朝、世間でとんでもない騒ぎが起こり始めていたことなど、知る由もなかったのである。
 いつも通る交差点で、事故現場に手向けられている花束へ何気なく目をやり、薄いもやのようなものが見えた瞬間、ついにこの日が来たのだと、風香は狂喜乱舞した。
 思っていたよりもよく見えなかったのは残念だったけれど、あれは幽霊に違いないと確信し、胸に下げた指輪を服の上からぎゅっと掴んで「ありがとー!」と叫んだりした。
 そのままうきうきと学校へ出かけていった風香は、一刻も早く友だちにこのことを話したかったのに、委員会のミーティングは行われることはなく、何とその日は学校が休校となり、登校していた生徒たちは全員帰宅させられてしまったのである。
 帰宅する途中、駅で号外を受け取った風香は、後にGクライシスと名付けられる異変が起こったことを知った。
「皆に見えるの!? っていうか、なんで私はあれしか見えないの!?」
 隣に立っていたカップルがぎょっとするような大声を上げて、風香は泣きながら、三人前てんこもりのギガパフェを出す喫茶店へと駆け出していったのだった。  
   ○◎● 郷田豊(ごうだ・ゆたか)の場合 ●◎○
 
 その日は、ガサ入れ直前の張り込みをしていた。
 前日の日曜日は、長年の友人であり、かつて想いを寄せていた相手でもある竜谷由貴(りゅうだに・ゆき)に頼まれて、彼女の娘・瑞貴(みずき)の父親参観に代理参加していた。シングルマザーである由貴は、参観日にはできうる限り自分で参加していたのだが、その日はどうしても仕事を休めなかったことに加え、当の瑞貴自身からのリクエストもあって、断るわけにはいかなかったのである。
 渋々という様子で受けたものの、生まれる前から知っている瑞貴の成長を見られるのは郷田にとっても楽しみで、今思い出しても顔がにやけてしまう。それを何度も、一緒に張り込みしている同僚刑事に冷やかされていた。
 その冷やかしが悲鳴に変わったのは、夜が明け、通りにちらほら人影が見えるようになった頃のことだった。
「お前の回りにいるそのうっすらした有象無象は一体なんなんだ    っ!!」
 強面が恐怖に歪んでいるのを見て、郷田は首を傾げた。確かに郷田の周囲には、どこからともなく幽霊が集まってきてはいたが、同僚は見えない質のようで、一度も指摘されたことはない。それを張り込み中、ガサ入れ対象にも聞こえるような大声で叫ぶ理由がわからなかった。
「ちょ、ちょっと坂さん、奴らに聞こえ……くそっ、待て! 待ちやがれ   っ!!」
 案の定、張り込み対象の事務所からは、わらわらと人相の悪い男たちが湧き出してきたが、皆郷田を見ると一様に顔をひきつらせ、叫びながら逃げ出していく。追いかけていく郷田の回りには更に幽霊が集まってきて、対照的に生きた人間は潮が引くようにいなくなっていった。
 それが、Gクライシスと呼ばれた異変が起こっていたゆえだと知ったのは、本庁に呼び戻された後のことだ。
 その日以来、張り込み・尾行のできなくなった郷田の検挙率は顕著に下がっていったのだった。
   ○◎● 田岡永人(たおか・えいと)の場合 ●◎○
 
 その日は、大学の研究室で夜を明かしていた。
 一介の学生に過ぎない田岡は、本来ならば研究室に出入りするようなことはない。提出したレポートがある教授の目に止まってしまい、以来、時折研究室へ呼び出されるようになったのだ。
 使っているマシンの整備といった軽い用事から、プログラミングの手伝いまで、用件は多岐にわたっていたが、サークル活動をするでもなく、バイトも不定期で暇だけはあった田岡は、特に用事がない限り応じていた。
 けれどその日ばかりは、断らなかったことを後悔した。
 教授がプログラミングに使っていたマシンに、院生がウィルス感染したUSBメモリを差してしまったのである。これまで田岡が組まされていたプログラムは当然オシャカになるし、データの一部は流出してしまうしで、教授も院生もパニック状態に陥り、機能しない研究室の中、その後始末のすべてが田岡に任されたのだ。
 結局夜を徹する羽目になり、帰途についた田岡のイライラは頂点に達していた。そんなときに限っていつもの道が通行止めで通れず、迂回しながらバイクを走らせていたが、普段通らない道には地縛霊が溢れ、幽霊の中を突っ切らずには通れない状態だった。
 ぷっつり切れた田岡は、いつもそうしているように片っ端から囲んでは「どけ」と命じて解き放っていく。いつもと違っていたのは、その幽霊たちが誰の目にも見えていたということだった。
 幽霊に怯え、動けずにいた人々には、救世主のように見えたのだろう。わらわらと集まってきて、あっちもどうにかしろこっちもどうにかしろと、田岡を引き留めた。
 極度の人見知りである田岡には、いっそ地球が終わってしまえと願ってしまうほどの恐怖だったという。
 Gクライシスという異変は、田岡の人見知りを悪化させたのである。
   ○◎● 伊崎圭吾(いざき・けいご)の場合 ●◎○
 
 その日は、食事を作るために早起きしていた。
 今日は一限から大学があり、午後は塾講師のアルバイトがあるために帰りが遅くなる。伊崎一人ならば、食事くらいどうとでもなるのだが、妹の優梨(ゆうり)はそうはいかない。
 兄妹二人きりの暮らしだから、忙しい兄を気遣って、家の中のこともあれこれやってくれているとはいえ、まだ小学生なのだ。一人きりでいるときに火を使わせるわけにはいかないし、何より食の細い優梨が、伊崎の手料理ならば食べてくれる。だから、こんな風に一日中家を空ける時は、朝早く起きて、優梨の分の夕食を作り、冷蔵庫に入れておくのが彼の習慣だった。
 好き嫌いも多い優梨の身体も考え、にんじんをすり下ろして加えたハンバーグを作ったり、セロリで作ったピクルスを細かく刻んでドレッシングに加えたり、デザートのブラマンジェを仕込んだりと、伊崎は妹の笑顔のために、早朝から忙しく働いていた。
 その間、情報収集のためにニュースを見るのも伊崎の習慣である。ニュース番組はいつもと様相が違い、スタジオの中は慌ただしく、ライブ中継で流された街の中で人々は尋常でない様子だった。
 それは、後にGクライシスと呼ばれる異変が、一般的に認知された始まりの日だった。
 中継映像にはノイズばかりで映し出されていなかったが、街には幽霊が溢れているのだという。
 伊崎にとって、幽霊が見えるというのは日常であって、とりたてて騒ぐようなことではない。だが、大多数の人にとっては大変な異常事態であることは、伊崎にも理解できた。世界的にこんな事態が起こっているのだとしたら、大学はおそらく休講になり、アルバイト先の塾も休みになるだろう。そしてもちろん、小学校も。
「……今日は一日、優梨と一緒にいられるな」
 伊崎は妹の輝くような笑顔を思い浮かべてにやりとし、彼女が大好きなフレンチトーストを仕込むために、卵液作りを始めたのだった。
   ○◎● 宇津賀ひまりの場合 ●◎○
 
 その日は、いつものように祖母の夢にうなされて跳び起きた。
 最後に顔を近づけてじっと目を覗きこみ、にたぁと笑って「お前を食べようとしてるのさぁ」とささやくように言うのだ。目が覚めてからもしばらく、胸がどきどきして治まらなかった。
 祖母が亡くなって随分経つが、夢の中ではいまだに生き生きとひまりに幽霊語りをしている。何故あそこまで、孫娘を怯えさせることに日々励んでいたのだろうか。
 ひまりは一つ、ため息を吐いて、学校へ行く支度を始めた。
 夢は夢で跳び起きてしまうほど恐ろしいものだったが、学校へ行くことを考えると布団の中で眠っていたいと思ってしまうくらい、憂鬱だった。
 学校自体がイヤなわけではない。学校と家と、その二つを結ぶ道を行くのがイヤなのだ。
 二本ある通学路のどちらにも交通事故現場があり、悲惨な姿をした幽霊が立っている。一度、思い切ってその二つ以外の、裏山を突っ切る道を選んでみたが、街中とは比較にならないほど人がいる時点で皆幽霊なのだと気づいて引き返した。ひまりにとって、安全な通学路はない。だから、登校と下校はひまりにとって、決死の覚悟で臨まねばならない行為だった。
 その日も、そろそろという辺りで顔をそむけて片眼を閉じて一気に駆け抜け、這々の体で学校へ駆け込んだ。それだけで朝はぐったりとしてしまうので、同じように真っ青な顔で駆け込んでくる同級生には全然気がつかずにいた。
 Gクライシスという異変が世界を一夜にして変え、ひまりに限らず皆に幽霊が見えるようになったのだと知ったのは、朝のように必死に家路を辿って帰り着き、テレビを見てからのことだった。
 けれど、変わったのは世界で、ひまりの視界ではない。だから、自分にはさして影響のない出来事なのだろうとそう考えていた。
 五年後、自分の身にあんなクライシスが起こるとは、夢にも思っていなかったのである。

『スパッとしもべ!』(2008年12月発行)より

『スパッとしもべ!』は『秋津島』と『S・P・A・T!』販促用同人誌でした。
これは『S・P・A・T!』の面々がGクライシスを迎えた日のお話です。設定通りの女性陣に対して、男性陣は全員予想外の方向に話が転がってしまいました。
郷田は設定変更があったので(※元々のお相手・由貴は、伊崎の同級生で独身・子どもなし)話が変わるのもまあ仕方ないとして、伊崎の転がりようは一体……。

                     
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